ジョセフィーヌの恋と結婚

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ジョセフィーヌ(1763-1814)

1763年西インド諸島の一つ、マルティニック島の港長の娘として生まれる。16歳のジョセフィーヌは叔母のすすめでパリに呼ばれ植民地長官の 息子アレクサンドル(19歳)と結婚させられ、二人の間に一男一女ができる。夫は軍人で家にいないことが多く、女遊びが激しかった。ジョセフィーヌの方も若いイギリス人との噂にたったりして 離婚訴訟も起きた。彼は1793年ライン軍司令官となるがマインツ合戦で敗れ1894年処刑されてしまう。
1795年国民公会でパリ司令官に任ぜられたパラスが、ジョセフィーヌ(当時パラスの情婦)を反乱を鎮定させたナポレオンに引き合わす。
ナポレオン(26歳)は32歳の美しい彼女に一目ぼれし、結婚をする。1796年3月9日挙式は質素に行なわれた。結婚2日後イタリア遠征軍司令官に として出発を命じられた。パラスは二人が結婚してもジョセフィーヌとの関係を続ける。ナポレオンはパラスに「妻をこっちへ来るようにしなければ、 戦争も軍隊も捨ててパリに帰る」と手紙を送るりパラスはジョセフィーヌを説得しナポレオンのいるイタリアに向かわせる。
1798年ジョセフィーヌはナポレオンが遠征中に若いシャルルという大尉と不倫する。ナポレオンの兄弟たちは彼女の不義と浪費をナポレオンに 知らせ離婚をすすめる。ナポレオンは別れようと決心するが、ジョセフィーヌが熱心に謝まったので許した。このときから、彼女は夫のナポレオンを 愛するようになる。1804年ナポレオンは皇帝の位につき、ジョセフィーヌは皇后となる。ナポレオンは皇位が自分の子によって世襲することを 願うようになりジョセフィーヌとの結婚生活10年40歳を過ぎたジョセフィーヌと別れ再婚を決意。1809年離婚。ナポレオンは「彼女への愛は 変らぬ」といい「皇后」という称号と待遇は奪われぬことと、200万フランの年金を約束した。
ナポレオンがロシア遠征に失敗し1814年エルバ島に流された1週間後ジョセフィーヌは肺炎にかかってマルメゾンの館で亡くなる。その最後の 言葉は「ナポレオン」であったという。ナポレオンも、セント・ヘレナ島の死の床で最後に「フランス、軍隊、ジョセフィーヌ」といって、 この世を去っていった。
(参考:世界史の中の女性たち:三浦一郎著教養文庫)

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