ブラームスの恋

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ブラームス(1833-1897)


ブラームス1833年ハンブルグに生まれる。両親が結婚したのが1830年父親は24歳、母親は17歳年上の41歳だった。父親はハンブルク民兵団のフルンの奏者で収入は少なく貧しいじょ幼少期 だった。7歳からピアノを学び始めたブラームスはたちまち上達し、10歳で父親の主催する音楽界でベートーヴェンの「ピアノ五重奏曲」とモーツアルトの「ピアノ四重奏曲」を引くまでに なっていた。13歳になったブラームスは家計を助けるべく、酒場やダンス・ホールでピアノを弾きお金を稼いだ。
過去を語りたがらないブラームスは少年時代に恋愛経験があったかどうかは明らかでない。彼についての伝記はシューマン夫人との恋愛を 最初の恋愛として描き出している。1853年9月ブラームス20歳のときシューマン家を訪ね自作の作品を弾く。シューマン夫妻に気に入れられ シューマン家に滞在するようになる。12月両親のもとに帰った。それから数ヵ月後シューマンが自殺未遂を起こし精神病院に収容される。 それを知ったブラームスはシューマン家へ急行夫人のクララを慰め、全力で彼女を援助する。当時34歳のはシューマン夫人クララは六人の 子供の母親であり、さらに7番目の子を身ごもっていた。6月に出産したクララを助けると共に彼女の演奏旅行や静養旅行に同伴した。その うち14歳年上の彼女を愛しはじめていた。そして、彼女もブラームスにひきつられていった。1856年シューマンが精神病院で息を引き取った。 シューマンの死後、クララと距離を置くようになり、クララとの恋愛は終わる。1858年25歳のブラームスは友人の家でアガーテ・フォン・ジーボルトと 言う女性と知り合い恋愛する。婚約指環を取り交わしたが結婚までいかず別れる。愛し合っていただけに痛手を負いそれを癒すため5年の 歳月を要した。クララ、アガーテと恋する相手が変わっていくにつれ恋愛の密度は薄くはなるが、恋する男であり続ける。
アガーテと別れた後、女声合唱団を指導、その合唱団の歌手に次々惚れていく。そのなかの一人、ベルタ・ポルブスキーには魅了され、彼女が 結婚し出産したした時、そのお祝いに歌曲「ブラームスの子守歌」を送っている。
ウィーンで女声合唱団の一員であったオッティーリエ・ ハウアーを知り惚れこむ。彼女の家族や友達は結婚すると思っていたほど親密だったが妻として受け入れられず別れる。
36歳のブラームスはその夏クララの家族と過ごす。クララの三女ユーリエは24歳の美しい女性に成長、ブラームスはユーリエに恋心を抱き始めるが、ある伯爵から 求婚されていた。クララとユーリエは伯爵と婚約したことをブラームスに話すと彼はとりみだし、挨拶もせずに帰っていった。
1883年38歳のブラームスはウィーンのアパートに住み40歳過ぎから髭を生やしはじめる。収入は多くなったが質素な生活をする。50歳になったブラームスは 26歳の歌手ヘルミーネと出会い恋する。彼女をウィーンの音楽界に紹介したり。歌曲を作り、手書きの楽譜を送ったりしている。婚約まで発展したがその先はなかった。 ヘルミーネは後に結婚するが36歳の若さで亡くなる。1896年5月クララが亡くなる。1年後肝臓癌でブラームスは自宅で息をひきとる。
(参照:「結婚しなかった男たち」 北嶋廣敏–太陽企画出版)

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