ニーチェ(1844-1900
42歳のときの「道徳の系譜学」のなかで、フリードリヒ・ニーチェは「—結婚こそは、おのれの最善への道を塞ぐ邪魔者かつ災殃であるとして。これまで 偉大な哲学者にして結婚した者などあっただろうか?ヘラクレイトス、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー 、彼らは結婚しなかった。(–略)結婚した哲学者というものなぞ喜劇に属する。—-。とある。そんなニーチェも結婚を考えた時期があった。
30歳のときである。1844年ドイツのザクセン州の片田舎で牧師の子として生まれたニーチェは30歳ごろまでまったく恋愛は無縁だった。 父親を早くなくし、母、祖母、伯母、妹など女性に囲まれて育ったせいか、生来の内気のせいかなのか、異性と親密な関係はつくれなかった。ププオルタ 学院在学中の20歳のころ下級生の姉に恩慕の情を抱いた。それが彼の初恋だったが愛は実ることはなかった。1866年夏、ライプツィヒ劇場で 客演した女優ヘードウィヒ・ラーべの演技に感動したニーチェは恋心を抱き、その思いを歌にしたため、さらにそれに自分で曲をつけて 彼女に贈ったりした。女性に対して引っこみ思案なニーチェはできることといったらそれくらいで結局片思いで終わる。
1969年24歳の若さでスイスのバーゼル大学の古典文献学教授に就任する。その数ヶ月前ワーグナーと出会いワーグナー夫妻と親交を深めていく。 出会った当時、ワーグナー55歳、妻となるコジマは31歳で人妻で離婚していなかったが1970年正式に離婚、ワーグナーと結婚した。親交を 深めていくうちに、彼はコジマにひかれ、彼女を恋するようになる。コジマもニーチェの思想を賛美した。しかしコジマにとっては仲の良い 友達にすぎなかった。
ニーチェはワーグナーと交際していたとき、ワーグナーはニーチェの健康を心配し、彼の体の不調は過度のマスターベーションにその 原因があるのではないかと考えて彼に結婚をすすめた。1876年31歳のニーチェは結婚しようという考えを抱くようになる。体調が悪く 大学の講義を中止し保養旅行にでかける。ジュネーブに滞在中に若いオランダ女性と出会い、わずか4時間一緒に散歩しただけで、彼女に 手紙で求婚した。異性との交際の経験がないニーチェは交際のノウハウなど持っていないのであっさり断られる。
1879年健康上の理由でバーゼル大学を辞職。功績が認められ、教授時代の年俸に近い年金を得る。1882年帝政ロシアの将軍の娘、ルー・サロメに出会う。 ルー21歳、ニーチェ38歳であった。ルーはニーチェの思想に共鳴したが、ニーチェに恋心はまったくなかった。8ヶ月の片思いの恋は終わる。
ニーチェはルー・サロメのあと女性との関係をもつことはなかった。
1888年の暮れ精神錯乱に陥り、翌年1月、イタリアのトリノの路上で倒れた。意識を回復した時は彼は狂人になっていた。1897年ニーチェの面倒見ていた 母親が亡くなり、その三年後妹のエリザベスの腕に抱かれながらこの世を去った。
(参照:「結婚しなかった男たち」 北嶋廣敏–太陽企画出版)