宮沢賢治の恋

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宮沢賢治(1896-1933)

宮沢賢治は世話好きで、何組ものカップルの恋愛を成功させたが、彼自身の恋愛は結実することがなく結婚できなかった。
生涯独身で通した賢治にも恋愛体験はあった。それも一度や二度ではない。対称年17歳の賢治は肥厚性鼻炎の手術のため入院した病院で 白衣の天使の一人に恋する。同い年の看護婦で彼の初恋であった。賢治は彼女に激しく恋心を寄せ結婚したいと思っていた。父親に 彼女との結婚を申し出るが父親は若すぎるといって反対され賢治の恋は片思いで終わる。彼はその思いを彼女に伝えていなかったようである。
盛岡高等農林学校に進んだ賢治はひたすら勉学に励み信仰する宗教(法華経)に熱心になったり、短歌を作ったりと、本科3年、研究科2年 の5年間充実した生活を送る。
研究科1年のとき友達に出した手紙に「妻はめとらない」と書く。賢治は独身を通すことを決心するが この決心は持続しない。大正9年高等農林の研究科を卒業した賢治は花巻農学校の教諭となる。そのころから短歌にかかわり自由形式の詩を 創作する。「春日呪咀」という詩の中に「髪がくろくてながく」「頬がうすあかく瞳の茶色」という表現がある。その女性は友達の妹の (大畑ヤス子)ではないかと推測されている。賢治は彼女を恋していたようで結婚話ももちあがっていたらしい。だが結婚することなく終わる。
また、妹トシの友達だった女性(遠藤智恵子)に結婚を申し込んだともいわれている。賢治は肉体的にはふつうの人間だった。性欲が湧いてくると 野山を歩き回ることでそれを鎮めた。賢治はいつも学生に「性欲、労働、頭脳(思案)のこの3つは両立しない。だからいずれかを犠牲にしなくてはならない」 といっている。賢治は労働と頭脳を選び、性欲を犠牲にする。30歳の賢治は花巻農学校を退職し、羅須地人協会を設立、農業を営む若い青年たちや 近村の人たちに農業に関するいろいろな講義をした。そんな賢治の前に一人の女性(小学校教員:高瀬露)が現れ、賢治の世話をした。 賢治は彼女が恋愛感情をもっており結婚を望んでいることがわかり彼女を拒絶するようになる。昭和3年賢治の前にもう一人の女性が 現れる。友達の妹で伊藤ちゑで賢治もひかれ、詩にちゑの思いを書く。
賢治は「禁欲は、けっきょく何にもならなかったよ。その大きな反動がきて、病気になったのです」「独身主義は間違いだった。利己主義的な 考え方からやったのですが、まるっきり無駄でした。今では結婚したほうがいいと思う」。と友達に語る。賢治は農民のため駆けずり回り体を酷使 し病気になり、禁欲、独身のままその一生を終えた。
(参照:「結婚しなかった男たち」 北嶋廣敏–太陽企画出版)

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